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神戸地方裁判所明石支部 昭和47年(ワ)28号 判決 1974年6月07日

原告

西沢きみゑ

被告

藤田高英

ほか一名

主文

被告藤田高英および被告藤田嘉一は、各自、原告に対し、金三二万四、七二七円およびこれに対する昭和四七年五月三日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

原告のその余の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は二分し、その一を原告、その余を被告らの各負担とする。

この判決中第一項は、原告において被告一人につき金一〇万円の担保を供するとき、その被告に対して仮に執行することができる。

事実

(原告が求めた裁判)

被告藤田高英および被告藤田嘉一は、各自、原告に対し、金一三〇万四、一六〇円およびこれに対する昭和四七年五月三日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決ならびに仮執行の宣言

(請求原因その他原告の主張等)

一  昭和四五年七月一八日午後四時ごろ明石市材木町一〇番地先路上において、被告藤田高英が運転して同道路を南進中の軽四輪貨物自動車前部が同道路を歩行中の原告の後方からその背部腰の上方付近に衝突し、これがため原告はその場に転倒した。

当時原告は、幅約五・五メートルの、中央線の標示や横断歩道の設置のない同道路において、付近町内の道路側溝等の消毒作業に従事し、同道路中央付近を北から南に向けて歩行中であつたものであり、同被告は、前記自動車を運転して同道路を南進中、なんら右原告に注意を払うことなく、まんぜん進行を続け、原告の背後からこれに同自動車前部左側付近を突き当て、原告を一・五ないし三・五メートルぐらい前方にはねて転倒させたものである。

同被告があらかじめ警音器を鳴らしたとか、徐行状態で進行したとか、あるいは、原告が道路西側(右側)端付近を歩いていたのに急に道路中央寄りに進出して来たとかとする被告らの主張事実は全部否認する。当時同被告はそのように注意をして運転していなかつたし、原告が右のごとく落度のある行動をした事実はなかつた。また、原告は同被告の自動車の右前部付近に接触したものでもないし、その場にひざをついたものでもない。同自動車も、原告の接近を知つてただちに停止したものでもないし、原告との接触と同時にその場で停止したものでもない。

二  第一項のとおであるから、本件事故は被告自動車の運転者たる被告藤田高英の一方的過失(前方不注意)によつて発生したものであり、原告には事故発生につきなんらの過失も認められない。

仮に事故発生の態様が被告ら主張のとおりであつたとしても、当時幅五・五メートルの道路の東側(左側)部分には相前後して二台の自動車が駐車しており、その余の狭い部分を町内会奉仕作業のため四、五名の者が歩行しているという状況にあつたのであるから、このようなところを自動車で進行する被告藤田高英としては、事故の発生を防止するため十分安全運転に心がけるべきであつて、原告の道路中央寄りへの進出が予見できず過失はないとすることはできない。右安全運転の注意義務を怠つた点において同被告に過失があつたことには変りがない。

したがつて、同被告は、右事故で原告が後記のごとく傷害を負つたことにつき、これによつて原告に生じた損害を賠償する責任がある(民法七〇九条)。

三  被告藤田嘉一は被告藤田高英運転の前記自動車を保有し、事故当時これを自己のため運行の用に供していたものである。

したがつて、被告藤田嘉一は、同事故で原告が後記のごとく傷害を負つたことにつき、これによつて原告に生じた損害を賠償する責任がある(自動車損害賠償法三条)。

四  原告は、本件事故時の衝撃により頸腕肩症候群の傷害を負つた。

すでに事故直後から左すね擦過傷のほかに右手がだるく背中に多少の痛みがあるという症状があつたが、当初原告はたいしたことはないと思つていた。ところが、その後その症状が次第に顕著となり、原告は事故前からめん類等の飲食店「こかく庵」で炊事の仕事に従事して稼働していたが、ついにその仕事を休みがちとなり、事故のあつた年の昭和四五年一一月中ごろ以後は、首と肩の痛みがとくにきびしく、水道のネジがしめられず、タオルもしぼれず、炊事仕事もできない状態になつて、右こかく庵での勤務を続けることも不可能になつてしまつた。

五  右傷害により原告に生じた損害は次のとおりである。

(一)  得べかりし利益の喪失 金四五四、一六〇円

前記のとおり原告はこかく庵に炊事婦として勤めていたが、事故前三月間の平均月収額二二、四八〇円に、原告がまつたく働けなくなつた昭和四五年一二月から昭和四七年四月までの一七月を乗じて得られる三八二、一六〇円と、昭和四五年末、昭和四六年夏期および同年末にそれぞれ得ることができたはずの手当金一回二四、〇〇〇円の三回分七二、〇〇〇円との合計額である。

(二)  慰藉料 金八五〇、〇〇〇円

原告が事故に起因する傷害により出勤できず、通院療養の生活を送らなければならなかつたことによる精神的苦痛に対する慰藉料の額は、一月につき金五万円として、前記一七月分計八五万円が相当である。

損害額以上合計金一、三〇四、一六〇円也

六  被告らが第六項で主張するごとく原告と被告らとの間で和解(示談)が成立し、原告がこの和解(示談)で定められた示談金二万円を被告らから受取つたことは認める。

しかし、原告としては当時事故で生じた傷害およびその症状がたいしたことはないと思い、事故直後たる被告ら主張の日に、被告らから求められるままに示談書の作成に同意したに過ぎない。当時としては、原告においても被告らにおいても、原告が本訴で主張するごとき傷害およびその症状ならびにこれにともなう損害のあることを予想していなかつたのであるから、右和解(示談)は、これが損害の賠償についてなんら触れるものではなく、この和解(示談)によつて原告の本訴請求がさまたげられることにはならない。

七  被告らの過失相殺の主張の失当であることはすでに述べたところから明らかである。

(被告らが求めた裁判)

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

との判決

(答弁その他被告らの主張等)

一  原告主張第一項の事実について

原告主張の日時場所で被告藤田高英が軽四輪貨物自動車を運転し道路を南進していたこと、当時原告が同道路にいたこと、および、右自動車と原告との間で接触事故の発生したことは認めるが、右事故発生の態様を争う。

当時同被告は南北に通じている幅五・五メートルのアスフアルト舗装のしてある道路を南進中、原告主張の場所付近にさしかかつたが、そのとき同被告は同路上に四、五名ぐらいの者がいて薬品散布などの町内会の奉仕作業をしているのを認めたので、警音器を吹鳴して車両の接近を知らせた。また、同作業員の一人である越田治三郎においても右被告の接近を知り、手をあげて同被告に注意を喚起した。これらの状況下において、同被告は速度を減じ、原告に接触する手前十数メートルの地点ですでに、ただちに停止し得る程度の速度に減速を了し、その後完全な徐行状態で進行した。被告が接触地点の十数メートル手前たる右地点にさしかかつたころには、路上にいた前記の人たちは車を避け道路端の方へ避譲してくれたので、被告はその後右のごとく完全な徐行状態で進行していたところ、該道路西側(右側)端あたりを北から南へ歩いていた原告が、後方から来る車に気付かなかつたのか、道路中央寄りに進出して来て被告の自動車右前部車輪あたりに接触し、その場にひざをついた。被告の車は原告の接近を知つてただちに停止し、右接触と同時にその場で停止したもので、スリツプなどはぜんぜんしていない。

二  原告主張第二項について

接触事故の発生につき被告藤田高英に過失のあることを争う。

事故発生の状況は右第一項記載のとおりであつて、同被告としては警笛も鳴らし、徐行もしていること、原告も他の作業員たちと同様に道路端に位置していたこと、その他右述の状況下において、原告が右のような不測の行動に出る可能性を同被告に予見せよというのは無理であり、同被告において原告がかかる行動に出ることはないと信頼して行動したことは許されるというべく、結局同被告には過失がなかつたことになる。

なお、原告は耳が遠いため警笛が聞こえなかつたのかもしれないが、このことを被告に予測せよというのは注意義務の範囲を越えるから、このことによつて右結論を左右することはできない。

右事故は、要するに、原告が被告の自動車の動向に対する注意を欠いたが故に生じたものであつて、もつぱら原告の過失によつて生じたものである。

三  原告主張第三項の事実は認める。

四  原告主張第四項の事実は否認する。

事故発生の態様が前述したとおりの程度のものであること、事故発生直後その場で被告藤田高英が医師の診断を受けてくれるよう申し出たのに対しても、原告は「すねにわずかのかすり傷がある程度で、医師に見せるほどのことはない」と断わつていること、それでも被告の方からすすめ、当日夕方に医師の診察を受けてもらい以後六、七回通院したが、そのさいの治療内容とてひざに薬を塗るのと痛みを訴え出した腕の湿布程度にとどまり、一週間もした七月二五日ごろには通院をやめてしまつていること、その後医師を変えては受診しているようであるが、そのさいの症状、診断、治療内容等はいずれもあいまいであること、原告は事故前からこかく庵に勤めていたが、それも七月二五日ごろまで休んだだけで、同月二六日には勤務を再開し、その年の一二月ごろまではほぼ従前と同様の給料を得て勤務を継続していること、その後においても平常となんら変わることなく身体を使つて働いており、事故後二年近くを経た昭和四七年の四月ごろまで、ときどき顔を合わせる被告らに対しても身体の異常を訴えたことがなかつたこと等諸般の事情からみて、原告に原告主張のような身体の異常があつた事実はきわめて疑わしい。

仮に事故後原告になんらかの身体異常の症状が生じたものとしても、それと本件事故との間には因果関係がない。

五  原告主張第五項の事実は全部争う。

六  仮に被告らになにがしかの損害賠償義務が生じたとしても、昭和四五年七月二五日、原告と被告らとの間において和解(示談)が成立し、被告らが原告に金二万円を支払いこれをもつて原告は本件事故による損害の賠償を請求しないことを約し合つた。これは、警察署において警察官立会の場でなされたものであり、原告も十分納得して合意したものである。

そして被告らは右和解(示談)にしたがい同日原告に金二万円を支払つたから、これによつて被告らの賠償責任は消滅した。

すでに述べたすべての事情からして、右和解(示談)は本件事故によつて生じたすべての損害について有効であるから、原告の本訴請求は失当である。

七  仮になお被告らに損害賠償の義務が残るとしても、すでに述べたところによれば事故の発生につき原告の側に重大な過失があつたというべきであるから、賠償額を決定するにさいし相応の過失相殺がなされなければならない。

(証拠)〔略〕

理由

一  昭和四五年七月一八日午後四時ごろ明石市材木町一〇番地付近の幅約五・五メートルの南北道路において、被告藤田高英が軽四輪貨物自動車を運転して同道路を南進していたこと、当時原告も同道路を歩行中であり、その原告と右自動車とが接触したことは当事者間に争いがない。

〔証拠略〕を総合すれば、

1  当時原告は同道路上を北から南に向けて歩いており、その原告の背後から同被告運転の自動車が突き当つたこと、

2  突き当つたさい、同自動車の前部で原告の身体に重心位置より上方の背中を前方に押していること、

3  同自動車は原告に突き当ると同時にその場で停止したものではなく、停止したときには原告がはいていた片一方の草履を前車輪の下に踏んでおり、したがつて少なくとも同自動車の最前部付近から前輪の車軸までの間の長さに相当する距離を進んだ位置で停止していること、

4  原告はこのように背後から突き当てられた結果、同自動車が停止した位置の最前部よりもさらに一・五メートルないし三・五メートルぐらい(おそらく一・五メートルぐらい)前方の路上に左ひざ等をついて前向きに倒れたこと

が認められ、〔証拠略〕中これに反する部分は採用できず、他にこれに反するだけの証拠はない。

二  前掲各証拠によれば、

1  右道路の幅は約五・五メートルであるが、接触地点付近の道路上東側(左側)の部分には道路東端(左端)に沿うようにして前後二台の四輪自動車が駐められており、通行し得る道幅がさらにその分だけ狭くなつていたこと、

2  当時原告を含む四、五名ぐらいの付近住民が道路の側溝等に殺虫剤を散布する作業に従事しており、右のごとく狭くなつた道路の部分上などに、思い思いで立止まつたり歩いたりしてたむろしていたこと、

3  ことに原告は、右狭くなつた道路の部分を北から南に向けて歩いていたこと

が認められ、他にこれに反する証拠はない。

当時の道路、交通の状況が右のとおりであり、げんに被告の自動車が前認定のごとく原告の背後からこれに追突していることからすれば、同自動車を運転していた被告藤田高英に自動車運転者としての安全運転義務違反の過失があつたものと推定することが可能である。

原告に接触した被告の自動車の部位が被告ら主張のように右端部であつたか否かということは、証拠資料が対立しており、確定することができない。ただどちらかといえば、そのように右端部でなかつたのではないかとみ得る資料の方がやや優勢のようであると言い得るのみである。

もちろん被告の自動車の速度は接触の事前からそう速いものであつたのではなく、被告藤田高英自身事前に前記のごとく四、五名の者がたむろしているのに気付いていたと認められるから、これに警告するべく事前に警笛を鳴らした旨の同被告の本人尋問中における供述はにわかに排斥し得ないし、同被告としては速度の調節その他の点において原告をも含む右四、五名の者に一応の注意を払つて運転していたとみることができ、しかも、早くから原告が同自動車の進路上にいたものとすればかかる同被告において原告に接触する以前に同自動車を停止させたはずではなかろうかと考えさせることを否定することはできない。

また、前掲各証拠によれば、路上にいた四、五名のうちそのままおれば被告の自動車と接触したりする危険のあつた者は、原告以外すべて同自動車の接近に気付き道路の端などに難を避けていることが認められるのに、原告一人のみがそのまま道路を南へ向つて歩き続け、しかも、おそらく最初は同自動車の進路上にはいなかつたのにだんだん進路上に立入つて同自動車に追突されるに至つているのである。

こうした状況からすれば、歩行者たる原告にも本件事故の発生につきなにがしかの過失があつたものと推定されることはやむを得ないが、そうだからといつて、いまだ同被告に、当時つくした程度以上の注意義務のあることを否定するのが相当となし得るだけの状況が存したものということはできず、なおかつ同被告に過失があるとの前記推定を打ち破るには至らない。

してみれば、同被告は、具体的損害賠償額の算定にさいし過失相殺の適用を受けることがあつても、事故の結果原告に生じた損害につき不法行為者として賠償責任を負うことを免れることができない。

三  被告藤田嘉一が被告藤田高英運転の前記自動車を保有し、事故当時これを自己のため運行の用に供していたことは当事者間に争いがないから、原告が事故で身体に傷害を受けたことによつて生じた損害については、同被告(嘉一)もまたこれを賠償しなければならない責任がある。

四  〔証拠略〕を精査検討した結果、事故により原告が受けた身体傷害に関し、当裁判所は次のとおり判断する。

1  原告は前記事故時に左膝擦過傷および右前腕部擦過傷の外傷を負い、事故当日たる昭和四五年七月一八日から同月二三日までの間のべ五回石井病院に通院し、右外傷に対する診療を受けた。

2  右通院の最後ごろには背中と胃が痛むと担当医師に訴えているが、その後これに対する診療を受けず、同月二九日から同年八月三〇日までの間富沢内科医院で背部筋肉痛の診断名のもとに通院治療を受けている。

3  この間の同年八月一一日から同年一一月二一日までの間、原告は森川整形外科医院に通院(実回数八月一四回、九月九回、一〇月一九回、一一月一五回)して診療を受けているが、そのさいの訴えは頭痛および腕の痛みであり、九月一四日ごろになると胸部に締めつけられるような強い痛みもあると訴え、一一月に入ると肩胛骨の付近や第五ないし第七胸骨の付近に痛み等の異常を訴えるようになつている。

初診当時同医院において頸椎部のレントゲン撮影をしたところ、第四、第五頸椎間の狭少と第六頸椎に軽度の骨刺ならびに第三頸椎が前方へ出る等の頸椎全体の異常わん曲が認められたので、頸椎骨軟骨症との診断名がつけられた。その後の胸部、背部の痛みに対してはその原因探索のための検査が行なわれたが、頸椎骨軟骨症と考え得る以外の局所異常等は発見されなかつた。

4  この間の同年九月二九日、原告は頸背部痛を主訴に明石市立市民病院で診療を受けているが、第四頸椎に叩打痛と圧痛が、両項、肩胛筋に圧痛がそれぞれあり、レントゲン検査の結果、上部胸椎に側わんおよび椎体縁骨棘形成が認められた。

5  原告は事故前からこかく庵というめん類等の飲食店に炊事婦として働いており、事故のあつた年の昭和四五年二月初めから同年六月末までの五月間には合計一一九日出勤し、六月に支給された夏季手当二四、〇〇〇円を除き、勤務一日につき平均約九五六円の給与を得ていたが、事故後においても同年八月から一一月二〇日前後ごろまでの間引続き合計七四日働き、勤務一日につき平均約八四九円の給与を得た。しかし、このように一日あたりの稼働日数および一日あたりの稼ぎ高の減少をみせたのち、同年一一月二〇日過ぎごろには退職してしまつた。

6  原告は同年秋の寒くなつたころから首の痛み、手のしびれ感などの症状がとくにひどくなり、翌四六年春ごろまでの間がもつともひどかつたと述べているが、前記四五年一一月二一日をもつて森川整形外科医院における診療を治療途中のままやめてしまつており、その後当分の間については、「同月二〇日から現在に至るまで耳鳴症状のため通院し対症的薬物療法を行つている」旨の神戸大学医学部附属病院医師の昭和四七年一〇月七日付証明書のほかには医師の診療事実を証明する証拠がない。

7  その後昭和四六年九月二〇日になつて原告は兵庫県リハビリテーシヨンセンターで診療を受けているが、そのときの所見では、右側頸部(第四、五頸椎部)に圧痛、右上腕神経最圧痛、右上腕にイートン氏テストによる放散痛、右拇指に知覚鈍麻が認められ、頸部の障害に起因する神経症状であるということで、頸椎骨軟骨症との病名診断を受けている。

8  さらにその後の昭和四七年三月八日原告は再び明石市立市民病院で受診し、そのときの所見では、両肩胛部に筋硬結、胸鎖乳突筋に圧痛があり、レントゲン検査の結果頸椎に后わん形成、第四、五頸椎間の椎間板の狭少化が認められ、これらのレントゲン検査上の変化は頸部痛等の症状を起し得るということで、変形性頸椎症との病名診断を受けている。

9  そして同年の三月一七日原告は背部痛、頸部筋痛症状を訴えて再び前記石井医院を訪れ、担当医師の所見では頸椎、胸椎には異常がなくたんに筋部の圧痛のみとみられたが、以後頸腕肩症候群との診断名のもとに同年一一月八日までの間引続き同医院に通院(実回数四七回)して診療を受け、この最後の段階では、加療を必要としないまでに恢復したとの判定を得ている。

以上が事故後原告が受けた診療その他の経過であるが、これによつてみるに、原告は事故後背部、腕、胸部、頸部、肩、頭部等に神経症状等(神経の刺激症状とこれを防ぐための筋肉の無理な使い方による筋肉痛)を呈するようになつており、その根本原因が第四、第五頸椎間狭少、第六頸椎骨刺形成、頸椎后わん、上部胸椎側わんおよび椎体縁骨棘形成等の頸椎および胸椎の異常にあつた(その後症状の程度が軽快したのは主として生体の慣れによる)ことが明らかである。

もつとも、右頸椎および胸椎の異常が本件事故時の衝撃で生じたものとは認めがたい。むしろ、当時四四歳であつた原告の体内において、事故前にすでに長期にわたつてこれらの異常が形成されてきていたと考えるのが相当である。

しかし、事故前においては右異常にともなう症状は発現していなかつたこと、事故時における前記のごとき衝突の仕方(立つている人体の重心位置より下方を後方から押したのではなく、重心位置より上方を不意に後方から押して急に前方に突き出し前向きに倒れさせている)からして、衝突時に原告の頸部に急激な屈伸を生じさせたことの可能性が考えられること、そして事故後短期の間ににわかに前記症状が発現するようになつたことからするに、原告は事故時すでに体内において脊椎(ことに頸椎)に異常を持ち、その異常の程度からしておそらくいずれは前記のような症状に悩まなければならないであろう素要を有していたが、事故時の衝撃で右異常の程度あるいはその影響力が増大し、前記診療の前提となつた諸種の症状を呈するようになつたと認めることができる。

このように事故にあつたことがひきがねとなつて症状の発現をみるようになつたのであつて、事故がなければ少なくともその時点での症状の発現はなかつたのであり、事故がなくても早晩同じ程度の症状が発現したと断定し得るわけでもないから、事故と症状の発現との間に相当の因果関係の存在を肯定しなければならない。しかしまた、すでに存した頸椎および胸椎の異常の存在は客観的に明白で他覚的に覚知し得るものであり、その程度はある程度高く、それ自体おそらくいずれは前記のような症状を発現させたのではないかと考えさせるだけのものがあり、しかも事故が寄与したところといえば前記のごとき範囲でひきがねになつたとしか言い得ず、症状の大部分は右既存の他覚的に明白な異常によるのであり、かつその異常そのものは治癒されることなく症状発現および症状軽快の前後を通じて存在し続けていること等の諸点からして、事故後発現した症状のすべてをもつて事故によつて生じた損害であるとすることもできない。

そこで問題は、どの程度の範囲の症状とそれにともなう損害をもつて本件事故との間に相当の因果関係があるものととらえ、加害者側にその損害につき不法行為責任を負わせるのが相当であるかということに帰着するのである。この点について裁判所は、原告が本件事故によつて比較的軽度のいわゆるむち打ち損傷を起こし、これがためしばらくの間加療をしなければならなくなつたが、通常の経過をたどり、前記のごとく森川整形外科医院での治療を中止した昭和四五年一一月二一日ごろ(事故後約四月目)には、局部に神経症状を残すという一四級該当の後遺障害を残して治癒したものと仮定し、これと同範囲の限度においてのみ事故と症状および損害との間に相当の因果関係を認め、その限度においてのみ加害者側に民事不法行為責任を帰属させるのが相当であると判断する。

五  この結論にしたがつて考えるに、事故と相当因果関係の範囲にある原告の精神的苦痛の程度は、慰藉料の額にして金三四〇、〇〇〇円と言うことができる。また原告主張の昭和四五年一二月以降の得べかりし利益の喪失については、以後二年間かつ労働能力喪失率五パーセントの範囲でこれを損害として是認することができる。原告主張の一七月間につきその額を算出するに、〔証拠略〕によれば、事故前三月間(昭和四五年四月ないし六月)の原告の平均月収額は原告主張のとおり二二、四八〇円であり、他に右六月に夏季手当との名目で二四、〇〇〇円の給与を受けているから、右二二、四八〇円の一二倍に右二四、〇〇〇円を加えた二九三、七六〇円が原告の年収額となり(年末手当については証明がない)、その五パーセントの額を一二で除して一七倍すると二〇、八〇八円になる。

本件事故と相当因果関係があると言い得る損害の額は右三四〇、〇〇〇円と二〇、八〇八円の合計である三六〇、八〇八円であるところ、前述したとおり歩行者たる原告にも事故発生につきある程度の過失があつたものと推定されるから、若干の過失相殺をしなければならず、諸般の事情からして過失相殺の割合は一〇パーセントが相当と認められるので、右金額から一〇パーセントを控除すると三二四、七二七円である。

原告は加害者側である被告両名に対し右三二四、七二七円の賠償を求めることができる。

事故後の昭和四五年七月二五日原告と被告らとの間で和解(示談)が成立し、その和解(示談)における合意内容は被告らが第六項で主張するとおりであり、即日示談金二万円の授受がなされたことは当事者間に争いがないが、右示談成立の時期、〔証拠略〕によつて認められるそのさいの示談書の内容ならびに〔証拠略〕によつて認められる示談成立までの事情等からするに、当時双方は事故によつて原告に生じた傷害の内容、程度は前認定の第四項の1の軽い外傷にとどまるとの認識に立ち、叙上のごときその余の損害が生じあるいは生じることはまつたく予想せずに安易に右示談の合意に至つたものであつて、当時かかるその余の損害の有無、程度についてはなんの紛争も存在せず、これについては示談解決においてなんら触れられていなかつたものと認められるから、右その余の損害については和解の効力が及ばず、したがつて被告らは、右示談成立を理由に前記三二四、七二七円の支払を拒むことができない。

してみれば、被告らに対する原告の本訴請求は、右三二四、七二七円、および、これに対する損害発生の日より後であることが明らかな原告主張の昭和四七年五月三日以降の遅延損害金(民事法定利率年五分の割合による)の支払を求める限度において正当であるから、その限度においてこれを認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九二条本文、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用したうえ、主文のとおり判決する。

(裁判官 岡本健)

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